ウィトルウィウス的人体図と黄金比

名古屋工業大学 先進セラミックス研究センター 井田 隆

レオナルド・ダ・ヴィンチ Leonardo da Vinci が 1490 年頃に描いたとされる「ウィトルウィウス的人体図」がどのように意図されたものかについて調べた。レオナルド・ダ・ヴィンチの描こうとした「円の半径」と「正方形の辺の長さ」の比は,黄金比 ( 1 / r ) = (51/2 – 1) / 2 = 0.6180 … ではなく,137 / 225 = 0.6088 … であったと推測される。


1.レオナルド・ダ・ヴィンチのウィトルウィウス的人体図と黄金比

黄金比 golden ratio とは,r = (51/2 + 1) / 2 = 1.6180… あるいは 1 / r = (51/2 – 1) / 2 = 0.6180… という数値で表される比のことである。

レオナルド・ダ・ヴィンチ Leonardo da Vinci の描いたとされる「ウィトルウィウス的人体図」 “Vitruvian man” の中の「円の半径」と「正方形の辺の長さ」の比が黄金比であると述べられる例は(最近では)少なくなっているが,2003 年に出版され,世界的なヒットセラー小説となったダン・ブラウンの「ダ・ヴィンチ・コード」という作品で取り上げられ,有名になった。

筆者は,パーソナル・コンピュータを使って,ウィトルウィウス的人体図について公開された画像データを見た瞬間に「黄金比を使って描かれたものではない」と感じたわけではない。インターネットから入手した画像を元にして,レオナルド・ダ・ヴィンチが正方形を意図して描いたと思われる図形が,実際に正方形に概ね一致するように画像の変換をして,その後に寸法を測ることを試みた。この操作には Adobe Photoshop と呼ばれる名称で市販されるソフトウェアを用いた。

処理後の画像データを Figure 1 に示す。

処理後の画像の寸法を測定した結果,円の半径と正方形の辺の長さの比は 0.606 – 0.609 程度の値になり,黄金比よりかなり小さい値であることがわかった。

Figure 1  "Vitruvian man" by Leonardo da Vinci (normalized)

Figure 1

“Vitruvian man” by Leonardo da Vinci (normalized)

(PDF, 244kB)


2.黄金比モデル

Figure 2 に示すように,レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた正方形と円(赤線)と,黄金比の関係にある円(青線)とを重ねて比較すると,この違いがさらにはっきりとする。

Figure 2

Lines drawn by Leonardo da Vinci (red) and a circle with the radius of golden ratio (blue)

(PDF, 255 kB)

レオナルド・ダ・ヴィンチの描いた図形では,人体が指先を頭頂部の高さに上昇させた時に,指先が円と正方形の両方に接する。

ところが黄金比 (0.618) で描いた円ではそのような関係が成立しない。黄金比の円が正方形の下辺に接する時,円の上側の部分は,正方形の上側の頂点にかなり近い場所を通る。指先を円と正方形の両方とも同時に接するような状況を実現することは,通常の肩の動かし方の範囲では,不可能である。

この相対的な関係は Adobe Photoshop を用いた画像変換による変形の影響は受けないので,レオナルド・ダ・ヴィンチの描いた円の大きさは,本質的に黄金比とは違うと断定できる。


3.正方形 45º 回転モデル

本稿を初めに公開した時点では,Figure 3 に示すように「正方形を 45º 回転させた図形の上の頂点を通る」という説が web ページで公開されていた(“Geometrical construction of the Vitruvian Man by Leonardo da Vinci”)。この Web ページは,現時点では既に削除されたようだが「『ウィトルウィウス的人体図』の円の半径と正方形の辺の長さの比は,『黄金比ではない』」と主張する点では筆者と意見が共通する。

Figure 3

Lines drawn by Leonardo da Vinci (red) and a circle going through the top vertex of the 45º-rotated square (blue).

(PDF, 184 kB)

この場合,円の半径と正方形の辺の長さの日は (21/2 + 1 ) / 4 = 0.604 となるので,確かに黄金比の値 (0.618) に比べれば実測の結果 (0.606 – 0.609) にかなり近い値になる。

しかし,レオナルド・ダ・ヴィンチが実際にそのような作図をした痕跡は残っておらず,どのような意図でそのように円を作図したかも不明である。結果的にはそこそこ合っているように見えるが,そのことから,レオナルド・ダ・ヴィンチの円がこの規則に従って描かれたものだという結論が導かれるとは思えない。


4.レオナルド・ダ・ヴィンチの描いた線と点

「ウィトルウィウス的人体図」には,レオナルド・ダ・ヴィンチが描いたと思われる線分と点とが認められる。また,図の下側に目盛のようなものが付けられている。

Figure 4 に,これらを赤い線で重ねて示す。

Figure 4

Lines, segments, dots and scale drawn by Leonardo da Vinci (red lines).

(PDF, 273 kB)

多くの線分が描かれているが,Figure 4 の中に A, A’, B, B’ と記した4箇所だけ,明瞭に端点の描き入れられていることがわかる。必要ならオリジナルの図 (Figure 1) をもう一度確認すると良い。


5.レオナルド・ダ・ヴィンチのメモ

「ウィトルウィウス的人体図」の下部には,鏡文字のイタリア語で以下のことが書いてあると言われる。

  • 胸上部から頭頂部までは身長の 1/6
  • 胸上部から髪の生え際までは身長の 1/7
  • 肩幅は身長の 1/4
  • 胸から頭頂部までは身長の 1/4
  • 肘から指先までは身長の 1/4
  • 肘から腋の下までは身長の 1/8
  • 手のひらの長さは身長の 1/4
  • 鼠蹊部の位置は身長の 1/2
  • 足の裏から膝の下までは身長の 1/4
  • 膝の下から鼠蹊部までの距離は身長の 1/4

描かれている線分の間隔は,Figure 5 に示すように,このような記載の内容とよく対応したものになっている。

Figure 5

Distances between segments based on the note in the lower section.

(PDF, 294 kB)

図の下に描かれている目盛は,「身長」(正方形の一辺の長さ)に対して 1/96 の間隔と 1/24 の間隔に相当する。この目盛の意図ははっきりとしないが,例えば「手のひらの長さ」=「身長の 1/10」の代わりに「1/24 目盛二つ分と 1/96 目盛二つ分を合わせた長さ」 = 「身長の 1/9.6」を近似的な長さとして用いたかもしれない。


6.レオナルド・ダ・ヴィンチの描き入れた4つの点

Figure 4 に赤線として示した多くの線分のうちで,線分 AA’ と線分 BB’ の端点だけ,明瞭に点が描き入れられている。このことはこの二つの線分だけは他の線分と性格が異なり,端点に位置を特定する意図があるか,線分の長さが特定の長さを指示するものであるかを意味する。

線分 AA’ と BB’ は,それぞれ頭頂部から 1/6, 1/4 の距離にあり,メモの内容から「胸上部 above the chest」と「胸 breasts」に対応すると推測される。しかし,線分の両端の位置や長さに関する記載は認められない。

線分 BB’ は乳首の上を通り,腋の下まで延長された線分であり,この線分の長さには「胸の幅」という意味があることはわかる。実際に描かれている線分 BB’ の長さは 1/5 に近い値である (Figure 6)。個人差はあるだろうが,標準的な体型を持つ人であれば,乳首の位置に手を当てると,胸の幅は手の大きさ二つ分に近いことを確認できると思われる。別の場所でも「整数の逆数」で表される距離の用いられていることから,レオナルド・ダ・ヴィンチは,胸の幅が手の大きさ (1/10) 二つ分と仮定し,1/5 という値を意図的に用いたらしい。

Figure 6

Positioning of four special points, A, A’, B, and B’.

(PDF, 210 kB)

描かれている線分 AA’ の長さは整数の逆数としては表されず,1/7.5 = 2/15 に近い。この線分 AA’ の長さがどのように決定されたかは明確でない。しかし,後述するように,点 A, A’ の位置は,腕を回転させるときの回転中心として用いられたと考えられる。このことを前提とすれば,肩の幅 (1/4) より狭くなければいけないという制約はあるが,肩の動かし方によって腕の動き方も変わるので,ある程度の自由度が残る。

ところが,レオナルド・ダ・ヴィンチの描いた点 A, A’, B, B’ の配置を比較すれば,Figure 6 に示すように「点 A, B を結ぶ直線と,点 A’, B’ を結ぶ直線が,頭頂部の位置 T で交差する」関係になっている。これが意図的な配置でなく,偶然だとは考えづらく,いずれにしてもレオナルドは作図をする際にこのことを明確に意識していたと想像される。

この関係を成立させるためには,線分 AA’ の長さは,確かに (1 / 5) × (1 / 6) × (1 / 4) = 2 / 15 という値を取らなければいけない。


7.腕の回転(1)

Figure 7 に示すように,腕を水平に伸ばした時の指先の位置(点 C)は,位置 A, A’ と同じ高さにある。また,頭頂部と同じ高さになるように動かした右指先の位置を D とすれば,線分 AC と線分 AD の長さが等しいという関係がある。

Figure 7

Rotation of arms (1)

(PDF, 208 kB)

点 A の位置は,肩の関節の位置からずれた位置にあるが,腕と肩とが連動して運動することを含めて考えれば,腕を上方向に回転させた時の実質的な回転中心に相当すると仮定することが自然である。

レオナルド・ダ・ヴィンチは点 A の位置にコンパスの軸をあて,水平の指先位置(点 C)で半径を決めて,コンパスを動かして正方形の上辺と交差する点として D の位置を決めたと想像できる。この点 D を通り,正方形の下辺に接する円は一意に確定する。

円の中心(臍)の位置をどのような方法で探したかは明確でないが,コンパスや定規を使った作図で求めることも困難ではなく,試行錯誤で決めたのかもしれない。最終的に正方形の下辺と接するようにすることにだけ気をつければ,正方形の上辺との交点の位置が本来の位置から少しずれたとしても,それは目立たない。


8.腕の回転(2)

レオナルド・ダ・ヴィンチは,何らかの作図的な手法によって円の半径を決めたと思われるが,この方法で決定される円の半径は,計算で求めることもできる。

Figure 7 に示すように,正方形の辺の長さ(身長 = 両腕を水平に広げた幅)を 1 とすれば,点 A と 点 C の距離は

AC = 1 / 2 – (2 / 15) / 2 = 13 / 30

となる。

したがって,点 D と頭頂部 T との距離は

DT = 1 / 15 + [(13 / 30)2 – (1 / 6)2]1/2 = 7 / 15

となる (Figure 8)。

Figure 8

Rotation of arms (2)

(PDF, 211 kB)


9.円の半径の計算

レオナルドの描こうとした円の半径を R とすれば,Figure 9 に示すように,

[R2 – (7 / 15)2]1/2 + R = 1

の関係が成立するはずなので,この方程式を解けば

R = [1 + (7 / 15)2] / 2 = 137 / 225 = 0.6088 …

という解が得られる。

Figure 9

Calculation of the radius of Leonardo da Vinci’s circle (R = 137 / 225)

最終的な解を得るために,2回の開平計算(平方根の計算)を行ったが,解は無理数ではなく有理数になった。このことは偶然かもしれないが,レオナルド・ダ・ヴィンチが意図的に有理数となるような比率を選んだ可能性も否定しきれない。


10.結論

「ウィトルウィウス的人体図」の画像を変換したデータについて,レオナルド・ダ・ヴィンチの描いた正方形と円とを赤線で,正方形の下辺と中点で接する半径 137 / 225 (0.609) の円を青線で重ねて描き入れた図を Figure 10 に示す。

Figure 10

Square and circle in the “Vitruvian Man” (red lines) and ircle with the radius of 137/255 (blue line)

(PDF, 253 kB)

拡大して見れば,わずかなずれがあることも否定できないが,過去に提案されたモデルと比較すれば,一致の度合いは改善されているように見える。

レオナルド・ダ・ヴィンチは,胸の幅を身長の 1 / 5 とし,この両端点 B, B’ と頭頂部 T を 1 : 2 に内分する点として A, A’ を求めた (Figure 6)。そして,点 A を中心として腕を回転させた時の指先の軌跡と,正方形の上辺の交点 D を求めた (Figure 7)。最終的に,レオナルドは正方形の下辺と中点で接し,点 D を通る円を描いた (Figure 8)。

結果的に,レオナルドの描こうとした円の半径は,正方形の辺の長さ(身長)の 137 / 225 倍の長さになった (Figure 9)。

レオナルドは,ほぼ意図した通りの円を描くことに成功した (Figure 10)。


11.補足:ウィトルウィウス的人体図の上部に書かれたテキスト

前節の結論は,筆者が「ウィトルウィウス的人体図」の絵の上側に書かれたテキストの内容を知らない状態で導いた。

現在はこのテキストを英語に翻訳した内容が公開されている。イタリア語の鏡文字で「ウィトルウィウスは以下のようなことを言っている」と言う意味であるとされる。

  • 掌は指4本分
  • 足は掌4つ分
  • 肘の長さ (cubit) は掌6つ分
  • 身長は肘の長さ (cubit) 4つ分
  • 一歩は肘の長さ (cubit) 4つ分
  • 身長は掌 24 個分
  • 頭の位置が身長の 1/14 下がるように足を開き,指先が頭頂部の高さになるまで腕を開けば,手足の先端を通る円の中心が臍 (navel) になる。このとき脚の間の空間は正三角形になる。

ウィトルウィウス的人体図でのレオナルドの脚の作図の意図には,やや理解しにくい面がある。また絵の上部に書かれたテキストの内容は「ウィトルウィウスはこう言っている」という表現になっており,レオナルド自身がそのすべてに従ったわけではないと思われる。

ウィトルウィウス的人体図の脚の間に「正三角形」があることには気づきにくいかもしれないが,確かに「正三角形」が存在する。そのことについて述べる。

Figure 11 に示すように,レオナルド・ダ・ヴィンチは左右の股関節 (H, H’) を中心として脚が回転すると理解していた。開いた左右の足の先端 (F, F’) を頂点とし,股関節 (H, H’) を通る三角形は正三角形である。

Figure 11

Drawing scheme of legs and the equilateral triangle in Vitruvian man

(PDF, 2.3 MB, editable)


2012 年 6 月 18 日 公開

2024 年 5 月 10 日 更新


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